そこに愛があった証拠とは


さて、昨日、一昨日からの続きです。

「自分を愛する」ということについて

なんだか、私が「愛」について、
何か思いを語ることがあるとは思いませんでしたね〜

「私なんて」という気持ちがまだあるんですね。

私が「愛」を語ってもいいじゃないか〜〜(≧∇≦)

ということで、私の考えを書いてみました❤️

自分を愛するとは

愛ってなんでしょうか。

大きなものっていうのは誰も思いますよね。

赤ちゃんを見つめる母親という感じでしょうか。

母なる地球という感じでしょうか。

その中には、好きも嫌いも、良いところも悪いところも、
全部ひっくるめて受け入れるという感じではないでしょうか。

何もかも全てオーケーと受け入れて、それを心から愛おしく抱きしめる、
私はそれが愛だと想っています。

なので、自分を愛するとき、嫌いなところが別にあってもいいと思っています。

全部が好きでもなくて、え〜〜と思うところがあったりしても、
それもひっくるめて、自分ってこんなのなんだなって思うこと、

それらを 優しく、暖かく、受け入れて認めてあげるということが、
愛するということではないでしょうか。

「自分を愛する」とは、
それを自分に対して思えるかどうか、ということなんです。

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なぜ自分を愛せなくなったか

ではなぜ、自分を愛することに抵抗があるのでしょうか。

なぜ、自分を愛したくないのでしょうか。

それは、自分は愛されていないという思いからなんですね。

自分が誰かから愛されているという実感が、そもそもないので、
自分でも自分のことを愛するということが分からないという場合が多いです。

また、自分は愛されるに値しない、自分には価値がないと思っている場合も、
自分のことを愛することは、なかなかできないのではないでしょうか。

それでは、なぜ、愛されていない、価値がないという思いを持つようになったと思いますか?

実は、赤ちゃんや幼児期に原因があることがほとんどです。

例えばお腹が空いた、抱っこして欲しい、そんな自分の要求を受け入れてもらえない時に
それを叶えてもらえなかったりしたらどう感じると思いますか。

愛されていない、そう感じるんですね。

そんな極端なことと思うかもしれません。

その時手が離せなかっただけかもしれないのに、
そう思うかもしれません。

でも、子供からみたら、そんな些細なことから、大切にされていない、最優先にされていないということを感じ取っていくんですね。

それが嫌だから泣き叫んだりして注意をひこうとしたり、要求をかなえてもらおうとしたりします。

「はいはい、後でね」

その一言で、後回しにされた、優先されなかったという状況から、
子供は愛されていない、自分に価値がない、と思い込む段階を進めてしまうわけです。

だからといって、それを親のせいにするのは、違います。

今、あなたが親の立場でいるのであれば、これからはたっぷり愛情を与えていけますね。

でも、過去のことを責めても何も変わらないのですから、それはそれと、事実として受け止めればいいだけです。

なぜなら親もまた、同じ様に育ってきたので、愛の与え方を知らなかっただけなのです。

なので、そんなことがあったのかもしれないと、
自分で後から記憶を書き換えていくことが、大切なんですね。

どんな記憶であっても、どのように受け取るか、認識を変えることで、
最悪の過去でも、最高の過去に書き換えることが可能です。

もし、本当に幼児期に愛情を十分には受け取れてなかったとしても、
それでも、どんな人であっても、必ず愛されてたという事実は存在します。

それは何より、今ここにあなたが生きているということが、その最大の証拠だからです。

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本当はちゃんと愛されていた

それでも、親から愛されていたという気がしないという人もいるかもしれません。

百歩譲って、大人の事情があったとします。

男の子が欲しかったんだけどなとか、
今生まれてこられても生活が大変なのにとか、

それでも、トツキトウカ自分の身体の中で育んできて、
ようやく出会えた我が子を手に抱いた時、心が感じることは「愛」でしかありません。

よくぞ生まれてきてくれた、私のもとに来てくれてありがとうという思いを持たない母親はいないんですね。

そこには、必ず何をもっても疑うことができない「愛」があります。

その後、頭で考えてしまうと、先ほど書いたようなその愛情を持ち続けにくい状態もあるかもしれません。

それでも、少なくとも生まれた時、誰もが愛されていたという瞬間は、あったわけです。

さらにいえば、生まれたての人間は、自分では何もできないわけですよね。

いくら望まなかった子供であったとしても、
ミルクをあげて、排泄の世話をし、安全な環境を作って育ててくれたわけです。

そこには、愛しかありませんから。

死産や流産などで、命をもたなかった子供でさえ、親からの愛を受け取っています。
親の心に「愛」の気持ちを育むためだけに、お腹に宿った命もあるということなんですね。

赤ちゃんの時は、そうしてちゃんと愛を与えて、そして愛を受け取れていたということなんですね。

どんな人でも、どんな状況であっても、命を授かるということが「愛」なのだと私は思います。

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自分を受け入れていく

それが、成長とともに、なぜかいろいろな思い込みを持ってしまい、愛を受け取れなくなっていくんですね。

愛されていないという思いから、自分自身の価値を低く低く、設定してしまうということになっていくんです。

さて、そんなメカニズムを知ったからには、

「愛されていなかった」という思い込みを

「実はちゃんと愛されていた」に変えるだけでいいんです。

それが、いくら望んだ大きさの愛でなかったにしろ、それでもちゃんと愛されていたんだという認識に変えればいいことなんですね。

どんな願いも叶えてくれて、欲しいものはなんでも買ってくれて、好きなことはいくらお金をかけてもさせてくれて、
そんな育て方だけが、愛ではありません。

例えば、親の思い通りにコントロールしようとしたのであっても、
それが親にとっては子供に一番良かれと思ってしていることが多いです。

それこそ、家庭の貧困によって子供を売ってしまった親がいたとしても、
お金が手に入ったと喜ぶのではなく、愛情があるからこその子供への罪悪感にさいなまれるのだと思います。

なんだか話がそれますが、私、その子供を手放した親の思いを想像していたら涙が止まらなくなったんですけど、
これって、自分の過去生を知るヒントでもあるんですね。

この泣けてくる感情は、再体験なんですね。

私は過去生で、子供を手放す経験をしているのだと思うのです。

この時、この感情を追いかけて少し瞑想してみました。

すると、どんどんイメージが広がってその時のシーンが見えてきました。
手放した子供に申し訳なくて、自分が不甲斐なくて、悲しくて悲しくて、泣き崩れる自分の姿が見えました。
後悔でしかない思いにとらわれて絶望している女性、それがきっと私の過去生でもあるのだと思います。

私は他にもたくさんの子供を産み育てたのに、戦争などに子供が皆行ってしまって、ひとり残されるという過去生も以前に見つけているので、多分同じ時か、同じ経験を何度かしているのだと思います。

なので、今、私は子供がいませんが、「子供を手放す」というシーンでこんなに感情が揺さぶられるのですね。

どんなシーンで自分が感動するか、涙が流れるか、これは自分で過去世を思い出すポイントでもあります。

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望む形ではなかったとしても、愛されていたということ

親の愛というのは、時として、いえほとんどが子供に伝わらなかったりします。

でも、そこに「愛」は、あるんです。

決して、愛されていなかったのではなく、
自分が望む形ではなかっただけで、必ず愛されていたのです。

それを受け入れることができれば、過去は変わります。

自分は愛されていた、それに気づくことができたら、自分も自分のことを愛してあげられませんか?

嫌いなところがあってもいいんですよ。
それもひっくるめて、自分という存在がこうして今あること、それは奇跡なんですよね。

いろいろな条件を全部乗り越えて、今ここにいるということ、それを認めること、それが愛なのだと思うのです。

そうして、自分を愛するということができた途端、
なんだか世界が自分に優しくなった気がしませんか?

自分をどうしても愛せなかった理由は、親からの愛をちゃんと受け取っていなかったからなんですね。

自分で受け取れていなかっただけで、そこにはちゃんと愛はあったんだと気づいたら、
今から、受け取ればいいだけのことです(*^_^*)

今日は、自分を愛してくれた親に、ありがとう(*^_^*)

#今日のありがとう vol.517

 

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