0歳で自立した妹の話


先日、依存について書いてみましたが、
今日は、自立について、
私の思うところを
一般論と、スピリチュアル的に見たときと、
それぞれで書いてみたいと思います。

親に依存し、親から自立する

誰でも生まれた時は全てを親に依存しています。

そこから、自我が生まれて、
好き嫌い、自分の欲求が生まれていきます。

そして、色んなことに興味を持ち始める頃、
親は心配し始めます。

「そっちはダメ、こっちにしなさい」

親心とはいえ、コントロールし始めるんですね。

でも「我が強い」妹は、ゼロ歳のときから、
自分の嫌なことをされそうになったら
泣きわめいて泣きやまず、確実に自分の要求を通してきました。

最初は何でも言われた通りにしていた「素直な子」だった私も、
3歳下に妹ができて、「おねえちゃんだから」うんぬんと、色々言われるようになると、
自分の欲求も言うようになっていきました。

でも、そんな私が「我が強い」と言われ出した頃、5〜6歳でしょうか、
その頃にはすでに妹に対しては誰もが腫れ物に触るように接していました。

思い通りにならなければすぐ爆泣きするので(^◇^;)

誰も、妹をコントロールすることはできませんでしたね。

今思えばすごいです。

自主性バリバリです。

自分の人生をゼロ歳児からちゃんと生きてきています。

他人に何かを言われて、自分の行動を変える、ということを知らないで来ているのではないかと思うほどです。

普通は、親に好かれようと、親や大人の顔色を見ることを覚えて、
「人に迷惑をかけたらダメ」と言われて育ち、
人の目、他人の評価に振り回されるようになります。

それが怖いからこそ、誰かの保護下に居たい、
守られていたい、となるんですね。

自分の気持ちと他人への気遣いで折り合いをつけながら、
色々諦め、我慢しながら、誰もが大人になっていくのだと思います。

それが、いつの間にか自分の人生をも任せてしまっている状態になってしまう場合があるんですね。

まぁ、夫も妹ほど拒否することはありませんが、
他人の目を全く気にしない人です。

自分のために自分で決めてきた人です。

でも私と結婚して、私があまりにも要求が多いので、色々気にしてくれています(≧∇≦)

自分の足で自分の人生を歩む

そんな夫と暮らすようになって、
私も親のレールから出てもいいんだということを学びます。

自分で決めて行動するわけですから、
そこで何もかも他人のせいにできないということを知るんですね。

人のせいにしていられることの、なんと楽なことか。

自分を悪者にしないために、人のせい、社会のせいにしていたことに気づいたんです。

でもね、考えてもみてください。
誰から見ての悪者でしょうか。

それも、自分で悪者ではないと決めればいいだけの事なんですね。

誰かに決めてもらいたい、承認を得たい、
それも人間の基本的な欲求です。

でも、その承認欲求が、自立を妨げているんです。

夫や妹のように、最初から極端に承認欲求が低い人もいます。

人がなんと言おうと、という人ですね(^◇^;)

承認欲求が、無いわけではないんです。
自分で、自分を承認して認めているから、それで十分なんですね。

いやいやなんだそれ!

「お前が何ができるかを決めるのはお前やなくて周りや、上のもんや!」
と言われてきた私には、なかなか受け入れられませんでしたよ。

でもね、
あれ?私の人生やんね〜、

何ができるかは、あんたが決めてもいいけども、
何がしたいかは、私しか知らんよね〜〜

と気づいたんです。

出来ることをしていくか、
やりたいことをしていくか、

そこでまた、自分で決めることができるかどうかなんですね。

自分の居場所は自分で作るということ

依存は、誰かに自分を預けてしまうことに他ならないんですね。

自分で決めない、ということです。

自分で選択することは、責任も自分についてきます。
それって、自分で選んで来なかった人にとっては、ものすごいプレッシャーなんですよね。

「誰かの居場所を作ってあげる」ということも、
実は、その人の主体性を奪っているということなんですね。

もちろん、良かれと思ってやってあげていると思うんです。

もともと、自分の居場所を自分で作ってこなかった、誰かが用意してくれていた人は、自分で考える、自分で決めるということに、ものすごい恐怖があるんです。

ある時「誰も私の居場所を用意してくれない」と仕事関係の人に愚痴られたことがありました。

「自分のスケジュールを他人が決めていて、
トイレに行く時間とか考えてくれてない、
しかも、仕事終わりのフォローもない」

なんでもかんでも他人のせいにするところは、昔の私を見ているようでした。

「そんなのひどいね〜〜!みんな考えてくれたら良いのにね〜!」
とでも言ってほしかったのでしょう。

でも、もう、その頃は私も自分の人生は自分で歩けていたので、バッサリ言ってしまいました。

「トイレぐらい自分で行く時間をとったらいいでしょう」と言うと、
「お客さんが待ってるから」と言うんです。

「じゃあ、スケジュール管理してる人に言えばいいでしょう」と言うと、
「それは言えない」というので「じゃあ、仕方ないですね」と見捨てようとしたら、

「そうやってみんな私の居場所を作ってくれない!」と「もう死ぬ!」と道路に飛び出そうとしたんです( ゚д゚)ヒエーーー!

「こらこらこらこら!!迷惑やから(車の人が)」と、止めました(^◇^;)

そこから、仕方ないので説教(説得?)することにしました。

立場的には私より上の人だったんですが、

「自分のことは自分で決めてください、
自分の居場所は自分で作ってください、

どうしてほしいかなんて、ちゃんと話さないと、誰もエスパーじゃないんですから、分かるわけありません。

スケジュール管理の人(私も知ってる人でしたが)も、気づいていないだけですよ。
文句を言ったらいいんですよ。

自分の面倒は自分で見ないと、誰が面倒見てくれるんですか」

でも、その人は、
「周りの人間のことまで気を配ることをしないといけない」と言うんです。

「そりゃ、出来る人はやったらいいですよ。でもみんなは出来ないんですよ。
だからといって自分が自分の面倒もみないのは、話が違うでしょ」と言いましたけど・・

結局言うことは分かってもらえなかったみたいですけど、
「疲れているみたいなので、ともかく休んでください」と帰ってもらいました(;´∀`)

自立することをスピリチュアル的にとらえたら

主体的に生きるって、自分の自由にすること、
そして、自分に責任を持つと言うこと、そこから自分に自信がついてきます。

それは一般論というか、リアル社会、肉体をもつ三次元の私達が、行動していくために必要な考え方です。

でも、スピリチュアル的にみたらどうでしょうか。

魂が今回の人生で何を学ぼうとしているのか。

依存をテーマにしたときにも書きましたが、依存するのも、自立するのも、どっちでもオッケーなんですよね。

「それ」を学びにきただけなんですから、
その感情を味わって楽しもうとしているだけなんですから。

「死ぬ!」と言った人は、実はカウンセラーなんですよね。
自分も心の闇をもっているからこそ、そんな悩みの人に寄り添えるんですよね。

そのままじゃカウンセリングどころではありませんが、
弱音を吐いたりしたいときもあるわけです。

落ち込んだときの苦しい感情を知っているからこそ、そんな思いの人を彼女なりの言葉で救っていくのでしょう。

私はそんなに彼女のことを良く思っていなかったので、ハッキリ言い過ぎたな〜と今では思います。
それも私にとってすごく良い経験です。

今目の前に、また彼女のような人が来たら、もう少し丁寧に、優しく、ちゃんと分かるように話せると思うんです。

それは、スピリチュアル的な見方を知ったからですね。

だから「死んだらダメ!」と言わないですよ(*^_^*)

「それもいいかもね」って優しく言っちゃいそうです。
いやいやいやいや、その後ちゃんとフォローしますよ。

「でも、本当はどうしたいんですか?」ということですよね。

このゲームをどっちに持っていきましょうか(*^_^*)って感じでしょうか。

依存したいと思ったらとことん依存してみたらいいし、
自立したいなと思ったら、そっちに動いてみればいい。

人のせい、社会のせい、環境のせいにしていないで、
自分はどうしたいのか、
自分は何を選ぼうとしているのか、

すべては、その経験でその感情を味わおうとしてるだけなんだ、ってことが分かるかどうかですからね。

スピリチュアル的にみたら、
自立しているのも依存しているのも、どちらも自分が楽しむためにやってみてるだけですから、良いも悪いもありません(*^_^*)

今日は、最初から自立している夫と妹にありがとぉ(*^_^*)


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