依存から学べることは


依存と聞いて、あなたはどう思いますか?

普通は、なんて幸せなことだろうと思わないですよね。

依存するって、よくないことだなぁ、
依存されるって、嫌だよなぁと思うのではありませんか?

でも、依存自体が問題ではなくて、
その自分をちゃんと受け入れてあげられるか、
そこで、その後の人生の幸せ度が大きく変わってきます(*^_^*)

まずは一般論としての「依存」とは。

誰か、もしくはものに頼ることで、心の安定や幸せを得ようとする行為です。

依存対象が無くては生きていけない状態や、依存対象からコントロールされている状態のことも言います。

今日は、誰か「人」に対する依存についてお話ししたいと思います。

アルコール依存や買い物依存など、「もの」に頼るのはまたの機会にしますね。

依存する側には、目的やメリットがあるわけです。

依存することで、心の安らぎを得たり、不安を無くそうとしたりするわけですね。

「依存」という言葉を抜いて考えてみたらどうでしょうか。

誰かに頼ることで、安心や幸せを得ているというのは、ものすごい幸せな状態ではないでしょうか。

依存できるということは、依存させてくれる対象、助けてくれている人がいるということなんですね。

頼らせてくれる人がいるということは、本当に幸せなことですよね。

それをなぜ「依存」という言葉で、良くないことだと決めつけるのでしょうか。

それは、依存する側、依存される側の力関係が関係してきます。

依存される側が、圧倒的に優位であり、依存されたくない、もしくは依存される代わりにコントロールしようとする場合、双方のバランスは崩れていきます。

また、依存する側にも、劣等感や、依存してしまっているという罪悪感がある場合も、同じです。

力関係のバランスが崩れている場合、どちらも自分を大切にすることなく、相手に対しての気持ちを優先してしまっています。

例えば、
究極のバランスが取れた「依存」は、赤ちゃんですよね。

赤ちゃんは、全てを親に頼らずには生きていけません。

でも、そんな赤ちゃんのことを親に依存しているとは、言いませんよね。

親は、赤ちゃんを産むことで幸せを得ようとしているので、お互いの目的、メリットが合っているわけです。

お互いに目的やメリットを共有して、頼り合って、助け合える関係でいられる場合、
それを「依存」とは言わなくなるのでしょうね。

そこから、親子の場合は、大人になるにつれてお互いに自然に「自立」していくわけですね。

親子の自立の話は、書きたいことだらけなので、今日は置いときます(;´∀`)

そんな親子だけでなく、夫婦やパートナー、師弟関係など、
力関係のバランスが崩れてしまっている「依存」は、
一般論としては、解消させるべく行動するほうがいいと言えますね。

ただ、難しいのはそれに第三者が絡んだ場合です。

本人同士は、頼り頼られ、支え合って生きている状態であっても、
それに不満や不都合、場合によっては嫉妬を感じる人からみたら「依存している」と責められたりします。

私も過去にある占い師さんに離婚させられそうになったことがあります。

夫婦で見てもらったのですが、私が夫に依存しすぎだと引き離しにかかられました。

結論からいくと、その占い師さんは同志を募って世直しをしようとしていて、
お金持ちは悪だ、清く正しい平等な世の中を目指そうとしていて、
結果的に夫はその理念に共感できず、私のもとに戻って来てくれました。

私は、依存と言われた時点で「なんで依存なの?」という気持ちだったので、途中で離反しました。

なので私のことはコントロールできず、どうも邪魔だったようです(;´∀`)

占い師さんと別れたあとで、
「私に依存されてて辛かったりするの?」と夫に聞いてみました。

「何が?何のこと?」夫の返事はまたここでも斜め上でした(;´∀`)

依存だなんだと引き離されそうになっていた意識はなくて、
自分も活動に参加させられそうになったけども、それが嫌だったということだけでした。

「じゃあ、私に依存されてるとは思ってないんやね?」
そういう聞き方をしてはじめて、
「依存されてるとは思ってないよ」という返事をもらったのだったかと思います。

そもそも、
「自分がどうしたいか」に徹している夫と、
人の言うことに振り回されていた私が顕著にでた事件でした。

その頃から私も「では、自分はどうしたいのか」を少しづつ大切にし始めたのだと思います。

本人に依存の自覚があるなしにかかわらず、
DVであったり、師弟関係だったり、力関係のバランスが悪い場合、
第三者から依存をしないで自立するように促されたりもすることもあるかと思います。

そういうときには、そもそも当の本人たちが、どうしたいと思っているのか、
確認しあうことが大切です。

第三者から依存だと見えても、
本人たちがそれで幸せな場合も往々にしてあるわけですからね。

それぞれ、自分がどうしたいのかが分かっていれば、
それを元に、関係性のバランスを取っていくことができますね。

私達夫婦も、そういった気持ちの確認作業を常にしてきているから、今があるのだと思います。

第三者が関わってくるという意味では、
他にも「依存していることは悪いことだ、自立するためにはこの壺を買いなさい」というようなビジネスはたくさんあります。

壺ではなく、お布施だったり、神様だったり、石だったりにお金を支払わせようとします。

「人」に依存している状態を悪いものだとして、別の依存対象となる「もの」にお金を払わせることで、その人達のビジネスはなりたっています。

なので、本当は自立したいと思っているのであれば、依存対象が変わっただけだということに、気づくことが大切です。

でも本当に大切なのは、依存対象となっていた「人」と関係のバランスを取ることなんですね。

実際に、依存なのか、助け合って支え合っているだけなのか、
第三者へ相談する前に、本人同士の意思確認が大切になってきます。

さて、ようやくここからは、「依存」について、
私のスピリチュアル的な見方についてのお話です。

依存するということをスピリチュアル的な見方をしたときには、あなたは、どう感じますか?

どんな人とも、魂が必ずこの三次元で出会い、何かの課題を一緒にクリアしていくことを約束して生まれてきているのだとしたら、どうでしょうか。

依存する方、依存される方、
それぞれのテーマが想像できますよね。

受け取ることと、与えることです。

それが、お金などの経済的な物質的なものなのか、生きていくための欲求なのか、愛なのか。

何を与えあっているのか、それによって魂がどんな学びをしようとしているのか、
それが分かれば、すべてが感謝に変わります。

人は、誰かのために行動することでも幸せを得ることができます。

頼られている事で、自分の存在価値を得ている人もいます。

頼ってくれてありがとう、
自分にも誰かを助けることができる、
誰かを幸せにすることができる
ということを学ぶためだと分かれば、依存してくれているということにも、感謝できますね。

多くの場合、頼って依存している方よりも、依存されている側のほうが学びが深く、
そのことで一回りも二回りも魂が成長をするのだと思います。

子供を産んで育てることで、人が「親」になるようにですね。

なので、「依存」自体は、良いことでも悪いことでもないんですね。

そこから何を学ぶか、どんなことを得られるか、なんですね。

そしてその後、自分で、自分の人生を歩む、自分を大切にしようとした時、
依存ではなく、自立しようとするでしょう。

自立に向けて歩み始めたその時に、
過去のその依存していた(依存されていた)自分のことをどう思うかなのです。

よかったね、私。
依存できて(依存してもらえて)

たくさんの愛を与えてもらったね(与えることができたね)

「私は◯◯に依存してしまっていた」などと、罪悪感や古傷のように、それで自分を責めてしまっていませんか?ということなんです。

依存出来る相手がいてよかったね〜でもいいんです。
むしろ、相手に学びを与えてあげられたわ〜と高飛車でもいいんです。

今は自分のことを自分で大切にできるけども、当時は大切にしてもらうことで幸せを得ていたんだな〜とニヤニヤ思い出せればいいんですよ。

誰にでも赤ちゃんの頃はあるわけですからね。

というわけで、スピ的に「依存」を見た場合も、
それはお互いの学びの場、ゲームのひとつのステージでしかない、ということですね(*^_^*)

今、依存してるな〜と思う人も、その相手に心から感謝をしてみてください。

頼らせてくれてありがとう〜
居てくれてありがとう〜

そうすると、依存しているだけでなく、何かをしてあげたい気持ちになりませんか。

実際に何かをしてあげることができないとしても、
お互いを思い合うこと、それでも十分に与え合うことになりますから(*^_^*)

赤ちゃんの笑顔はその最たるものですね。

今日は「依存」にありがとぉ(*^_^*)


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